厚木繁伸氏ダイナミックオーディオ勤務の架空セカンドシステム

家庭で「音楽をきく」に充分なシステムです。もし火事でメインシステムが消失してしまったら、このセカンドシステムにする事でしょう。

スピーカー  :JBL TRIMLINE (LE8T+PR8)

ADプレーヤー:Thorens TD124+RMG212

カートリッジ :Ortofon SPU-AE CA25D STA6600

CDプレーヤー:LINN CD12

プリメインアンプ:JBL SA600


厚木サウンドは地動説オーディオか?        山本耕司

「興味があったら是非ききに来て下さい、でも大音量で激しい音だから、耳から血が出るかも」と温厚な顔の厚木さんが言う。僕はその言葉にビビって「出来れば体験したくないなあ」と思っていた。ある時、富田さんに「JBLのプリとマランツ9でパラゴンを鳴らしてる人がいる」と話したら、「是非きいてみたい」と言うので、僕も「色々体験しておいた方が後々のためにもなるのかも」と思い。きかせてもらうことにした。そんなわけで、厚木宅へ着いても、僕のやや及び腰なスタンスは一貫していた。

リスニングルームに入って驚いたのは、パラゴンの前に置いてあるソファの近さだ。こんな近くで大音量だったら、僕のか弱い鼓膜は一体どうなるのだろう。不安がつのる。ケーキと紅茶をご馳走になり、一曲目はチェンバロは、なかなか実体感のある音で「おお!」と思う。G・グールド、トン・コープマンのオルガン演奏はバッハ「我おん身を呼ぶ」、デュ・プレのボッケリーニ、イダ・ヘンデルとすすむ。「限りなく演奏者に近づきたい」と厚木さんが言う通り、確かに近く、熱く、興奮させられるるサウンドだ。

僕のオーディオは演奏者との距離感で言えばかなり遠い。富田さんもまあ遠い。柳澤さんはそれに比べればグッと近い。岡崎さんもサウンドステージ派の割には近い。それぞれの好きな距離はあるが、仮に眼前で演奏が展開されたとしても、みんな演奏を客席できいている感じがある。だが、厚木さんの音にそういう客観性はない。客席よりさらに近い=舞台に上がったような感じだ。バイオリンが地球で、伴奏も観客もその周りを回っている。僕はこれを地動説オーディオと呼ぶことにした。

JAZZはものすごかった。一曲目のソニー・ロリンズをきいただけで僕の耳は「キーン」となって、脳が痺れてしまった。ものすごいスピード感で、刺すような高音と共に分厚い中域が主張する。「このぐらいの感じできくのでなければきかない方がマシ」だと厚木さんが言う。僕には「激辛のカレーじゃないと食べた気がしない」ときこえた。僕は激辛に弱いから、「これを拷問の手段にされたら3時間ほどで仲間の名前ぐらい吐いてしまう」かも知れない。

StudioK'sに戻り、しばらく自分システムで音楽を流しつつ、デジカメで撮った写真をMacで処理した。夜中になっても首から上の疲労はなかなか消えず、最後にMAレコーディングズの「DREAM SONG」(BRUCE STARK)をかけて椅子に腰掛けたまま20分ほど眠りこけ、やっと少しスッキリした。

「他人からはよく"少数派"だと言われるんですよ」と厚木さんが言う。僕もそう思う。だけど、僕は厚木宅へ行ってただただ疲れて帰ってきたのかと言うと、「そんな事はない」と断言する。もちろん全面的に共感をおぼえて僕もパラゴンを買ったりはしないが、この強く熱く速く塊のような純粋なものを自分のサウンドに取り込めたら思う。数日後、友人が僕のところへロジャースのStudio3という小型SPを持ってきた。きいてみるとKEFにはないシャープさがあって「いいなあ」と思ってしまう。僕にはこれが厚木宅訪問と無関係だとは思えない。

厚木さんが心から「すごい」と思うサウンドは二カ所あって、一つが「ベーシー」でもう一つは「山口孝 氏」(STEREO SOUNDレコード演奏家訪問を見て下さい)のお宅だそうだ。僕の「すると厚木さんは山口組若頭なんでしょうか?」の問いに厚木さんは「わはは、そうです」と答える。「山口サウンドも同様に近距離大音量だが、同時に静寂が存在する」が、「自分は未熟なのでまだ音がちょっと強い」とも言う。僕は単純に(なら、弱くすりゃいいじゃん)と思うのだが、これは多分そういう問題ではなくて、やむにやまれぬ強さなのだろう。


 

「私が1950年代のJAZZ&CLASSICをきくために、諦めるものもすてるものも一切ない」究極のシステムです。

スピーカー  :JBL Paragon
ADプレーヤー :EMT 930ST+930・900
カートリッジ :EMT OFD25(mono) TSD15(stereo)
CDプレーヤー:LINN CD12
プリアンプ  :JBL SG520
パワーアンプ :Marantz #9p

 

厚木さんは定価280万もするLINNのCD12を使っている。「CDを聞くときはいつも"これはCDなんだ、アナログじゃないからね"って自分に言い聞かせ、きき方を切り替えていたが、LINNのCD12で初めてその必要がなくなった。だから、CDを3枚きいただけで欲しくなり7年ローンで購入した」という泣かせる話を聞いて僕は厚木さんの事がすごく好きになった。

  

とてもセンスが良く、オーディオに打ち込んでいる事がよく伝わるインテリア&愛玩物が印象的だった。


オーディオに永久的な芸術の機能を求めることは不可能か。厚木さんの鳴らすパラゴンを聴いて切実に思った。氏はこの命題に果敢にも挑戦されているようにみえたからだ。ぼくはこのサウンドに触れて、そう、まさに触れられるかのようなこの音によって、JBLという神話の領域に足を踏み入れられた気がした。この神話的音響世界は、グールドの体温を感じさせ、デュプレの悲しみを表現する。ぼくは不覚にもデュプレの演奏であることを見ぬけなかった。あまりにも美しく悲しい演奏に心を奪われていたからだ。演奏者の名を聞かされて、はっと我に返った。これほどの演奏はデュプレでしかありえないというのに。
そしてハイフェッツとヌヴーを聴いた。ヌヴーに至っては30年代の録音である。そこに氏は永久的な音楽芸術を見ていた。ぼくはそうしたものを聴かせてくれようとする氏の真摯な対応に感謝していた。普通オーディオを聴かせるとなると録音を選ぶものである。
最後に語らなければならないのはジャズについてである。厚木さんの鳴らすジャズは凄い。だが確かなことは、ぼくには氏の鳴らすジャズに意見をいう資格などないことだ。それほどまでに氏のジャズに対する思いは強い。

氏は今の音に満足されていないようだがそれは誰もがそうである。完全なものなどどこにも無い。不完全であるからこそ創造的になれるのである。

                              富田徹


山本様 お世話になっております。
中村 匠一です。

厚木さん宅訪問記に若干の改訂を加えましたので、
再度UP致します。

ヴァイオリンとジャズの音の記述のところを変更しました。
自分にとっては、おもいっきり厚木サウンドマンセーなのですが、
厳しい音だから、聴こうとする方は覚悟をして下さいね、
位のニュアンスが伝わる文章にしたつもりです。

文章によって、真意を伝えることの難しさを改めて痛感しておりますが、
ご拝読いただければ幸いです。

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「大音量で聴くのは、演奏の細部まで聞き取りたいからだ。」とは確か故・岩崎千明さんの言葉だったと思う。長い間、オーディオに興味が無く、大きな音で音楽を聴かなかった(聴けなかった)自分は、その言葉に対して「ふ〜ん、そんなもんかね。」と幾分懐疑の念を持っていた。しかし、最近自分自身オーディオにハマり、他の方の音を聴かせていただく機会が増えるにつれ、段々とその言葉の持つ意味が理解できる気がしてきた。そして、先日、厚木さん宅の音を聴かせていただいて、まさにその言葉の意味するところを実感することができた。

この日はまず、クラシックのCDからかけていただいた。ミケランジェリのドビュッシー、コルボのフォーレ「レクイエム」等、自分にとっても馴染み深い演奏が多かったのだが、ピアノのペダリングや歌手の息遣いが手に取るほど間近に感じ取れ、演奏者の表情や緊張感までもがリアルに伝わってきて、CDという小さな円盤にこれ程まで演奏者の感情が込められているものなのかと驚かされた。アナログになると、その傾向はますます顕著になり、音の切れ込み・厚み・深みが増し、演奏者の感情のさらに奥底までのぞき込めるような気にさせられる程だった。

この日はヴァイオリンのレコードを沢山かけていただいたのだが、ことに印象的だったのが、ヌヴーのラヴェル「ツィガーヌ」とティボーのヴィターリ「シャコンヌ」の演奏だった。自分の持てる力を目一杯注ぎ込んで、全身全霊を楽曲に捧げようとするヌヴーの真摯な姿勢。歌うべきところは歌い、抑えるべきところは抑えるといった、絶妙のコントロールを見せるティボーの音楽家としての懐の深さとダンディズム。その両者の対比がどんな文章を読むよりも雄弁に感じ取ることが出来た。厚木さんの鳴らすヴァイオリンは刺激的だ。音量も凄いし、アタックも鋭い。生音は硬軟両面を併せ持っているが、その厳しさをクローズアップした鳴らし方だとは思う。だが、それは自分にとっての生音のイメージと重なっているところが多く、殆ど違和感はなかった。また、音の消え際や、音と音の間に何とも言えない静寂感が感じられ、それが演奏の迫真性をさらに高めている気がした。

厚木さんのメインソースであるジャズはさらに凄まじく、ソニー・ロリンズの、まるで火を吹くようなブロウにはじまり、ビル・エバンス・トリオの息をのむようなインタープレイ、フランク・バトラーのタイコの皮が破けるんじゃないかと思うほどのドラミング等、強烈なサウンドにはただただ圧倒されっぱなしだった。だが、それはただ力任せな音ではなく、ビッグバンドのスイング感などはとても心地よくて、空気がビリビリするような大音量にもかかわらず、自分は二回ほど眠りこけそうになったほどだった。ジャズで、この日一番印象深かったのはチャーリー・パーカーだった。かつて、自分はパーカーの良さがわからず、図書館でレコードを借りてはパーカーのアドリブ・パートだけ抜き出したカセットを作り、それを何度も聞き直して理解しようという、今考えると無駄な努力をしたあげく、よくわからないうちに「とにかく、パーカーは偉大なんだ。」と思いこむことで満足していた事があった。しかし、この日の厚木さんが鳴らしたパーカーの演奏を聴いて、自分はその凄さを理解するのに一分とかからなかった。それは理屈ではなく、とてつもなく強靱な音で、このフレーズを、このスピードで吹き切ることが出来る。それを体験するだけでパーカーの凄さを身にしみて感じることが出来たのだった。

厚木さんの音を聴いて、自分はかつてヘッドホンで音楽を聴いていたときのことを思い出した。それは音質の問題でなく、当時の自分には音楽に真剣に食らいつき、どんなに些細な事でも聞き逃すまいとする姿勢があったと思う。今の自分のオーディオ環境は当時に比べて恵まれたものになったけれども、それによって置き去りにしてきた何かを厚木さんのオーディオを聴かせていただくことで幾分かでも取り戻すことが出来たように感じた。 今回の訪問で、厚木さんは「プリの調子が悪く、メンテしなければならない。これから一ヶ月くらいは音が出せないかもしれない。」と、そして「もう二十年選手ですからね。仕方ない。」と名残惜しそうに話されていた。が、長い間苦労を共にしてきた戦友のようなそのシステムを見つめる厚木さんの表情は、どこか誇らしげに感じられたのが印象的だった。「変わらない・変えない」事の大切さを改めて教えていただいたような、そんな気がする。

厚木さん、本当に有り難う御座いました。またプリが復帰したら是非聴かせて下さい。万難を排してでも聴きに行きたい。そう思っております。


 魂の音                 

厚木さんの装置からは、なぜ、あのような音が出るのだろう? 
あれからもう数日が経過した。だが、素朴な疑問はいっこうに解けないままだ。これまでに二度、JBLパラゴンを、ジャズ喫茶で聴いたことはある。しかし、いずれも厚木さんのお宅とはかけ離れた音で鳴っていたし、たとえ他家でチューンナップされたパラゴンを聴かせていただいても、厚木さんのパラゴンのように鳴ることは、おそらくないだろう。まだ私には想像するしかないが、厚木さんが師と仰がれる山口孝氏のお宅以外には……。

厚木さんのオーディオを知ったのは、オーディオベーシック誌19号の訪問記事だった。そのページに綴られた山本さんの印象的な文章と、雰囲気のあるリスニングルームの写真からは、厚木さんの鳴らされる孤高の音と、オーディオへの真摯で崇高な思いが浸みいるように伝わり、厚木さんという方のオーディオに尊敬の念をおぼえたことは、未だ記憶に新しい。そのとき以来、機会があれば厚木さんの音を体験してみたいと、ずっと思い続けて二年の歳月が流れていた。
厚木さんの音は、厳しい音だ。過酷といってもいい。あらゆる楽器が音を出すときに生じる、音にはならないいかなるエネルギーをも、厚木さんの装置は、逃さず捉えて解き放つ。それゆえ過酷な音ではあるが、冷たい音ではない。厳しい音ではあるが、人を傷つけたり拒絶する厳しさではなく、澄んだ魂が赤裸々に発する根元的パッションに導かれる厳しさだ。だから、厚木さんの音の前で、人はとてつもなく謙虚で小さな存在になり、あるときは、ピアノのなかに潜り込み、弦を叩くハンマーの間近に身を置いて聴き、また、あるときはウッドベースのボディに密着し、指が弦を弾く鋭い衝撃を体全体で必死で受けとめる。でも、そうこうしていると、今度は自分がドラムセットになり、ミュージシャンと呼吸をひとつにしてスウィングしはじめるのだ。
そう、スウィングするとは、こういうことなのだ、とそのとき初めて思った。躍動感がある、という表現は、厚木さんの音にはあまりに客観的だ。
「ステージの上に立つマイクロフォンになりたいのです」と厚木さんはおっしゃる。しかし厚木さんの音は、マイクロフォンよりも、さらに楽器との心理的な距離感が近く、厚木さんが楽器そのものであるかのように私には思えた。
カウント・ベイシー・オーケストラは圧巻だった。30cmと離れていないところで等身大のビッグバンドが炸裂し、怒濤の風となって吹き抜けていく。私は、パラゴンが置かれたあたりからはるか後方に拡がるビッグバンドのキャパシティのなかに身を置き、全盛期のベイシー・オーケストラのメンバーとおなじ地平に立ち、おなじ空気を吸った。

人はなぜ音楽を作り、演奏し、聴こうとするのだろう? その根元的で切実な問いかけに、厚木さんの音は応えてくれる。音は魂が変容したものだ。私ももっと真剣に音に耳を傾け、さらに多くの魂の声をききとれるようになりたいと思った。

            2003.6.5           原本薫子


ついに、厚木さんの所へ行って参りました。
厚木さんのサウンドは、StudioK'sホームページや、友人の赤荻さんから話を伺っておりましたので、気合いを入れて伺いました。

しかし、部屋に入った瞬間、目眩が!!
部屋の空気が違う。
私はまだ早かったのではないだろうか。来て良かったのか?と自問してしまいました。
しかし、音楽を聴かせていただく前の厚木さんとの会話で大分身体も慣れてきました。

魂を込めた厚木さんがボリュウムを絶妙に調整して音楽が始まります。
音量はとても大きいけどキツくはない。と、そんなことを考える間も与えずに、五嶋みどりが、チャーリーパーカーが、自分の中に入ってくるのです。体験したことのない感覚です。

演奏者を目の前に見て、楽しむなんてスタンスとは全く異なった次元です。五嶋みどりさんの演奏では、何でこんなに哀しくなるのか、胸が熱くなります。

「この演奏、半端じゃなく凄いんだぜ!」と厚木さんが聴かせてくれる演奏は、言葉に出来ないほどに凄かった!!

何時間も音楽聴いて、話をして、とても充実した日となりました。厚木さん、貴重な1日をありがとうございました。もっともっと、音楽に、真剣に耳を傾けていきたいと思います。

                            師田克彦

厚木さんが「極道です」と自らを語るとき、なぜか僕は右翼的純粋さに触れたような気分になる。それは侠気(おとこぎ)と言ってもよい。現実の厚木さんはとても優しく、誰かとケンカなどせず、ましてやドスを振り回すなんてことはないが、彼がいつも口にする「闘い」というフレーズは一体どこからくるのか、それはやはり、純粋なものへの憧れこそが厚木さんをあの音とあのアプローチへ駆り立てるのだと思う。

一般的な「音楽を楽しむ」という観点からすると、かなり偏った表現である。確かに、ただきれいだったり、軽く心地よいだけでは=芸術的に優れているなんてことはないわけで、優れた芸術には深みや陰の部分が必要である。もう一つ突っ込んで言えばそれは「悪魔的な部分」だったりもするのだが、厚木さんの音楽再生はそういった「深さ、暗さ、怖さ、激しさなど=魂と呼んでも良い」を抽出し、体験する装置のようである。

僕は、そんな風にそこの部分だけ取り出さなくても、装置がちゃんと鳴っていれば、そして聴く側の感度があれば、深さも暗さも怖さも感じ取る事は可能だという立場でオーディオをやっている。魂が抽出されれば、その分失うものもあり、僕はどちらかと言うとその厚木さんが失ってもいいやと思っている部分を大切にしている。具体的に書くとそれは「色っぽさとか、繊細さ」とかで、だから、それらを得た代償として厚木さんが引き出したい部分はオブラートに包まれている。そういうわけで、厚木さんが僕の音をきけば「常にちょっと物足りない」ということになるし、僕は「もう少し普通に表現してくれても、わかるものはわかる」と思っている。厚木さんのリスニングルームは闘いの場であり、僕のそれは「時に闘ったり狂ったりもするが、基本的にはのほほんとしたり、ちょとぎきには凄くないが実はすごいところを充分楽しむ」場だと言える。

さて、二年ぶりの厚木サウンドはやはり二年分の変化があった。重心が下がり、特に低域が深みを増していた。一番印象的だったのは、その分ピアソラの恐怖が後退していた事だった。僕のところに比べればまだまだ怖いが、おかげで自分のところでもこの曲をきけるようになりそうだ。なにしろ二年前ここでこの曲をきいてから、僕は自分の装置でこの曲をきけなくなってしまっていたのだった。

厚木さんに100%傾倒し、パラゴンを買い似たような機器で似たようなソフトを再生する人は今のところ現れないようだが、色々な人たちが、この表現を体験するのは良いと思う。そして各々のオーディオで、瞬間的にで良いから厚木さんの表現しているものを出せるように調整してみて欲しい。もちろん僕だって、ミケランジェリが弾くドビュッシーのピアノは地の底からきこえてきて欲しいと思っている。

10代の頃から決まっていたという機器、部屋に置かれている物の配置を見ても、厚木さんのセンスとこだわりには並々ならぬものがある。もちろん、部屋が広い狭いなんてことは無関係だ。彼がJAZZ喫茶を開いたら、どんなインテリアにするのだろうと想像するだけでも楽しめる。

こだわりという言葉が出たので、少々理屈っぽく説明してみよう。音楽の内容に、ジャケットに、オリジナルか否かに厚木さんはこだわる。機器の性能や佇まい、それらを置き、きく環境に厚木さんはこだわっている。もちろん良い意味でのこだわりだし、センスも良いので学ぶところが多い。では、自分はどうだろうと省みると、カエターノ・ヴェローゾの「禁止することを禁止する」風に言わせてもらえば、「僕は、こだわらないことにこだわっている」ということが最近わかってきた。 2003.7.7 (山本)