数年前サントリーホールでブレンデルがベートーヴェンの後期ピアノソナタを演奏し、僕は演奏者の裏側の席できいた。正直、前半のOP.109と110はあまり強い感動がなかった。ピアノの蓋の真裏だったし「やっぱり安い席はダメなのかな」と思いきや、OP.111のトリルの美しさは特別で、キラキラと宙を舞うダイヤモンドダストのようだった。あの体験は僕の生涯の宝物だと思う。自分のオーディオであんな風な再生が出来たら最高だ。
有料で、もちろん先払いでいい、そして面と向かって失礼な事など言わないから、有名なオーディオ評論家のお宅を訪問させて欲しいと思う。「亡くなった誰々の音」とか言われても、きいたことがなければ想像するしかないのは非常に残念だ。僕たちもそれなりに色々やっているから、オーディオEXPOやオーディオショーのブースの音では満足など出来ないし、販売店の試聴室もまた然りだ。チケットを手に入れれば誰でもが演奏会をきけるような方法で、各評論家の作品とも言うべきサウンドを体験させて欲しい。僕らがアッと驚き「よーし、一生かかってもいいから、自分もこういうサウンドを作ってやろう」と思わせてくれる、そんな「プロのレコード演奏家」は一関にしかいないのだろうかと、ずっと考えている。
ところで、オーディオ評論家=演奏家なのだろうか? これは=の場合もあるし、そうでない場合もありそうだ。音楽評論家と音楽家は=ではないし、スポーツ選手と解説者は違うのに、オーディオの場合はそのあたりがはなはだ曖昧だ。僕は何としても選手でいたい。河川敷の草野球でもいいからプレーヤーがいい。そして、自分の行為や表現を他の人のと共有し、もちろん他の人の表現も自分のものにしていこうと考えている。だから、僕の音をききたい人にはなるべくきけるよう努力しているし、色んな人の音をきかせてもらいに行く。そういった行為を続けるのは、非常に楽しいが、いつもいつも楽しいことばかりではなく、悲しい事や腹の立つ事もある。だが、良い意味での摩擦や抵抗も無しに楽しいだけの関係はありえない。光は闇の存在によって、その明るさや輝きもきわだつ。